倉田記念日立科学技術財団の出会い

ノーベル化学賞 (2001年) 野依 良治

1969(昭和44)年度、1977(昭和52)年度の2回、
倉田奨励金を授受

日本の若い研究者を支援したい。倉田主税のこころざしから創設された国産技術振興会(のちの倉田記念日立科学技術財団)では、活動を開始した1968(昭和43)年度から、数多くの科学者に研究助成金「倉田奨励金」を交付してきました。
その中の一人に、2001年「触媒的不斉水素化反応の開発」によりノーベル化学賞を受賞した野依良治博士がいます。倉田のこころざしが後年、確かな実りをもたらした例としてあげられるでしょう。

特別インタビュー

プロフィール

野依 良治(のより りょうじ)

名古屋大学特別教授、工学博士
2001年ノーベル化学賞受賞者
国立研究開発法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター長
1938年、兵庫県生まれ。第二次世界大戦終了後、復興途上の日本で初のノーベル賞に輝く湯川秀樹博士に憧れ、科学に目覚めた。やがて「ナイロンは石炭と水と空気からできる」と知り、化学の力に感動し、研究者の道を志す。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。名古屋大学教授、理化学研究所理事長などを経て、現在は科学技術振興機構研究開発戦略センター長を務める。2000年、文化勲章受章、翌年「不斉水素化触媒反応」の業績でノーベル化学賞を受賞。
「倉田精神」はこれからも継承され、発展を続けるでしょう。

 この度、倉田奨励金が創立50周年を迎えられたことをお祝い申し上げます。「継続は力なり」といいますが、これまでの倉田奨励金の受領者リストを拝見しますと、我が国の科学技術界に数多の人材を育ててこられたと実感します。改めて大いなる敬意を表したいと存じます。
 私自身は第2回と第10回の受領者です。当時、倉田主税氏の科学技術振興に対する熱い想いと、私財を投げ打ってこの助成事業を始められた実践力に深く感銘したことを覚えています。その「倉田精神」ともいうべきこころざしが後の私を導いたと言っても過言ではなく、受領者の一人としてご厚意に感謝申しあげます。

 私は石油化学の勃興期に少年期を送りましたが、当時の多くの化学会社は海外から技術を輸入していました。化学会社の技術者だった父は、これではダメだ、世界に通じる自主国産技術を創らなければ、我が国の経済復興は絶対に有り得ないと繰り返し唱えていました。それは、倉田奨励金を創設するにあたり倉田氏がおっしゃっていたこととまさに同じでした。
 そのような父の影響を受けて私は京都大学工学部に進学し、1968年には名古屋大学理学部に移り自分の研究室を構えました。それから2年後、31歳のとき、2回目を迎えた倉田奨励金を受領しました。私が初めて受けた記念すべき財団助成金であり、研究室を立ち上げたばかりで資金が乏しく、この助成は大変有り難かったことを思い出します。

 そして8年後の39歳、第10回目の倉田奨励金を再び受領しました。後にノーベル賞受賞の対象となった不斉合成触媒誕生の直前で、まさに“産みの苦しみ”の最中でした。いただいた奨励金はこの研究にも使わせていただきました。

私は現在、奇しくも倉田氏が設立に尽力された日本科学技術振興財団で、科学技術館の館長を仰せつかっています。この巡り合わせに、私は「倉田精神」の本質は永遠だと感じています。
 国土が狭く、天然資源に乏しい日本がこれからも生きていくためには、科学技術の振興は不可欠です。このことは、次代を担う子どもたちにぜひ伝えるべきです。ただ、時代は変わり科学技術は完全にグローバル化しており、もはや日本国内に留まることなく、広く世界と連携し協力していく必要があります。
私はこれを、「倉田精神」の新たな時代の展開だと感じています。

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