日本における外国人労働者受入れ政策のパラダイムシフトと若干の思い出

筆者は,法務省入国管理局(後の出入国在留管理庁)に在籍していた約35年の間,出入国在留管理行政,就中外国人労働者受入れ政策の変遷を目の当たりにしてきた。その年月を振り返った時に初めて,その時点時点では見えにくかったかもしれないパラダイムシフトを確認した。その滔々たる流れの中でのいくつかの重要な局面と,いくつかの筆者の忘れ難い記憶について紹介する。
はじめに
近時,日本における人口減少そして労働人口減少に伴う労働力不足を背景に,外国人受入れ政策が大きく転換している。2019年には,「労働力が不足する分野に外国人の力を借りる」という政策を具現化するものとして「特定技能」の在留資格が創設された。さらに2024年の入管法等改正により,技能実習が生まれ変わるものとして「育成就労」の在留資格が創設され,2027年4月には施行される予定である。ここにおいて,「特定技能」と「育成就労」はある意味合体し,「労働力不足分野に外国人の力を借りる,しかしその力は日本でしっかり育成する」という一貫した政策が形になった。1993年に創設され,人材育成面での国際貢献というその制度目的と労働力確保という実態が乖離しているのではないかという指摘や,雇用の現場での人権侵害等の問題の発生があり,それでも何百万人とも言われる開発途上国の若者を育成し,身に付けた技能とともに本国に送り届けた技能実習制度が,名実ともに日本の外国人労働者受入れ政策として「育成就労」に生まれ変わるのに,30年の月日を要したということであろうか。
この間,日本の外国人労働者政策がどのように変化してきたか,その変化の背景になる社会の変化はどのようなものだったのかを,現出入国在留管理庁,旧法務省入国管理局に在籍した筆者の,若干の思い出とともに振り返ってみたい。
なお,文中意見に及ぶところは,筆者の個人的な見解であることを申し添える。
1. 2000年以前~日本が座していてもアジア地域の人々が日本を目指した時代
私が国家公務員になって法務省入国管理局に入ったのは1985年であった。入省2年目に東京入国管理局(当時)で在留審査の担当課に配属された時,手続きのカウンターは,パキスタンやバングラデシュの男性の申請者で一杯だった。当時,それらの国とは査証免除協定があり,その国の人たちは観光目的であればビザ免除で来日することが可能であった。そのため,多くの人たちが実際には就労することを目的にしながら,入国時に観光目的と申請し上陸許可を受けたものの,当時の観光目的の上陸許可に付される在留期間は15日間が主であったので,その更新手続のため,東京入国管理局等の事務所を訪れるという事例が,言わばブーム化していた。窓口での職員とのやりとりは,「(職員)どこに観光に行くのですか?」,「(申請者)ヒロシマ,ナガサキ」,「(職員)ヒロシマには何を見に行くのですか?」,「(申請者)……」というパターンで,職員も就労目的の滞在だろうという想定はしつつ,それを不許可にして数日後に不法残留状態にしたところで,その管理を担保する法令上のしくみも制度運用上の体制もなかったことから,「在留期間更新許可15日(今回限り)」というスタンプを旅券に押して審査を終えていたと記憶している。今思えば,「今回限り」という処分の法的根拠は何だったのだろうとも思うが,まあ行政指導ということだったのであろう。そうした査証免除協定締結国の人たちによるそのブームは,マスコミ等で「じゃぱゆきくん」とも称されたのだが,その事象に先行して,同様に観光目的等を理由に入国し風俗営業などに携わった外国人女性たちを「じゃぱゆきさん」と呼んだ事例があった。戦時中に東南アジア等の戦地に赴いた日本人女性たちを「からゆきさん」と称したことの比喩でもあったので,その呼び名が適切だったとはとても思えないが,就労を目的とした日本への国際人流の先駆けとなる事象であったと振り返ることができる。
当時,戦後の飛躍的な経済成長を遂げていた日本に対する,未だ開発途上であった近隣アジア地域からの就労を目的とする人流圧は強く,言わば日本が座していても国際人流は日本に向いていたのだが,日本が労働者に開いていた門戸は限定的なものであったため,その流入は多くの場合,「不法滞在」「不法就労」という姿に帰結していた。
そのような20世紀末であったが,1990年代には,この歴史を辿るにあたって大きな出来事が二つあった。
ひとつは,1993年に,今に繋がる技能実習制度の大元が創設されたことで,日本に向かう国際人流を受けとめる動きも,今から思えばこの時に,長い歴史を刻み始めたのであった。
もうひとつは,いわゆる南米の日系人が,1990年施行の入管法改正によって整理された「日本人の配偶者等」や「定住者」という身分・地位に基づく活動が該当する在留資格で入国し,就労に制限のない形で労働することが可能だということが広く知られ,多くの日系人が家族を伴って来日し始めたことであった。
巷間,この二つの出来事,及び留学生のアルバイトによる労働力確保が,日本が外国人のいわゆる単純労働者を真正面から受け入れずに,労働力確保あるいは低賃金労働者確保を行ってきたのではないかと言われることがあるが,留学生については在留資格に該当する範囲で日本人学生と同様にアルバイトを許容したということであり,また日系人については,旧入管法でも受け入れていた「日本人の血を継いでいる外国人は受け入れる」という政策を引き継き,「但し三世まで」と決定したものであり,そのような政策的意図があったものではなかったと理解している。
2. 余談~国際人流の源を巡ってアジアを歩いた2年間,果てしない鳥瞰の試み
1998年から1990年の2年間,国家公務員の「研究休職」という制度を活用するお許しを得て,シンガポールにある東南アジア研究所(Institute of South-East Asian Studies)を拠点に,日本への国際人流の源流国等を訪ねた。「同研究所を拠点にして」というと何だかアカデミックな響きがするが,実際にはシンガポールを引き上げて,バックパック・トラベラーとして各国を旅した時期もあった。各国の労働省等を訪問するのに,道場破り的とは言え一応は日本の公務員然としなければならないので,ちゃんとしたスーツを一着だけ持ち歩いた。
ずっと気になっていたのは,1986年に東京入国管理局の窓口で会ったパキスタン人やバングラデシュ人の故郷だったので,それらの国を訪れ,日本での就労OBの人々にも会っていろいろな話を聞き,私なりに人流の源に辿り着けたような気もした。もとより,その旅を通して,アジア地域の国際人流を鳥瞰したいなどという私の大志は,①事が各国の経済・社会・文化その他様々な要因に関連して複雑であること,②脈々と流れる人流もそもそもは一滴ずつの個人の営みであって,日本で見た「ブーム」のようなことがあるにしても,計り知れない部分があること,③そして事態が刻々と変化していくことなどを目の当たりにして,果てしない野望であることを早々に自覚した。しかしそこが正に,この話がヒューマンで面白いところであり,結果的にはその後期せずして長く続くことになった私の入管人生の原点とも言える経験となった。
3. 21世紀突入~外国人の積極的受入れの兆しと次代への基盤づくり
1)外国人を「惹き付ける」施策の数々
そのような雰囲気で,時は21世紀に突入した。世界的には時既に,ヒト・モノ・カネ・情報などの国境を越えた流れが活発化していて,日本も,前世紀のように座していては,来て欲しい外国人に来て貰えないという認識が生まれた時期だったと思う。その証左としてこの時期,いろいろな形で外国人を「惹き付ける」政策とその施策が生まれました。その例として,2003年外国人観光客を惹き付ける「ビジット・ジャパン・プログラム」では,2010年までに訪日外国人客1,000万人を達成するべく,国土交通省や関係業界が様々な取組みを行った。その後も,2020年までに3,000万人,2030年までに6,000万人と,コロナ禍を経てのV字回復が目標とされている。また,2008年には,「留学生30万人受入れ計画」が策定され,目標数を定めて留学生を惹きつけることになった。なお,この留学生の積極誘致は,1983年に「留学生10万人計画」として第1弾があったのだが,10万人計画は,とにかく西洋並みの10万人を受け入れようと数を目指したものであったのに対し,30万人計画は,数を目指したことはもとより,産官学が協力して,留学生の受入れから出口たる日本での就職までを,パッケージとして戦略化したものであった。10万人計画が達成までに20年を要したのに比して,30万人計画が10年で達成されたことは,その戦略が功を奏した面もあったと思う。
さらには,2012年から始まった高度人材ポイント制は正に,日本が来て欲しい外国人を惹きつける制度で,日本の産業のイノベーション等に貢献する能力を有する蓋然性が高い外国人を,学歴,収入,年齢等をポイント制で評価し,日本における様々な活動を許容するとか,小さな子どものいる外国人家族にその親御さんを孫の養育支援のために呼び寄せることを許容するとか,永住あるいは永住的な長期在留資格を早期に付与するとかという入国在留管理上の優遇措置を提供することによって,高度人材を惹きつける取組みであった。2024年6月末で,累計5万人以上の外国人が高度人材に認定され,何らかの優遇措置を活用している。この制度発足時に目標数値があったわけでないので,この制度の評価は難しいところであるが,優遇措置が入管手続上のものに限られていた点,そのいずれをも要さない人を惹きつけるには至らない限界があるのかもしれない。高度人材が就労先を選ぶ一番の要素はまずは報酬かもしれないし,日本社会全体として,本気でそうした外国人を惹きつけるというのであれば,子どもの教育の在り方や社会福祉制度の在り方などの優遇措置も検討の余地があったのかもしれないが,もしかしたら「そこまでのカードは切らない範囲で惹きつける」ということだったのかもしれない。
この時期は(便宜的に21世紀に入って2015年ごろまでと区切る),外国人労働者の受入れという意味では,大きく政策の転換・拡大が図られた時期ではなかったが,個人的には思い出深いことが1件,面白かったことが1件,そして次の時代の外国人受入れの土台になる大きな出来事が1件あった。
2)思い出深いこと―2000年3月第2次出入国管理基本計画
「出入国管理基本計画(現出入国在留管理基本計画,以下基本計画)」は,出入国在留管理及び難民認定法に基づき,出入国及び在留の公正な管理を図るため,外国人の入国及び在留に関する施策の基本となるべき計画について法務大臣が定めるものである。1990年施行の改正入管法(以下,入管法)でその策定が法定され,1992年5月に第1次が策定された後,少し間をおいて2000年3月に策定された第2次の基本計画に担当課の補佐として関与した。事務的には関係省庁との調整等紆余曲折あったのであるが,今読み返してみると,というよりも「読みようによっては」であるが,21世紀の幕開けに,21世紀を予感させる基本計画だったと思う。
計画部分の項目で,「我が国社会が必要とする外国人労働者の円滑な受入れ」とあり,現状認識として,「(抄)いずれにしても,今後は,一層,物,金融,情報知識そして人や企業がグローバルな規模で移動するような時代になりつつある。」とある。正に21世紀の世界はそのようになっている。
そのあとが施策部分で,その前半は,いわゆる専門的,技術的分野の外国人労働者の受入れの拡大について積極的に検討していくこととする,という内容になっている。興味深いのは後半なので,該当部分をそのまま引用する。
「さらに中長期的には,今後の人口減少に伴い労働力不足の問題が生ずることが懸念されることから,今日でも,例えば,社会の高齢化に伴い一層必要となる介護労働の分野などにおいて,外国人労働者の受入れを検討してはどうかとの意見がある。
これらに関しては,専門的,技術的分野と評価し得る人材については,これまでどおり積極的にその受入れを図っていくこととし,社会のニーズを見極めた上,労働力を提供する外国人の入国・在留が我が国社会に問題を生じさせないよう,また適切な技術や技能が確保された上でこれらの労働が適正な対価で提供されるよう,さらに諸外国側における技術者や技能者等の必要性などについて配慮しつつ,その受入れの是非を検討していく。そして,現行の在留資格に該当する職種等を見直し,場合によっては,我が国の産業及び国民生活に与える影響その他の事情を勘案しつつ,的確かつ機動的に外国人の入国者数を調節できるような受入れの在り方について検討していくことになる。」
介護が例示されているので,「これらに関しては」以下「その受入れの是非を検討していく。」までの内容は,現行の在留資格「介護」に結実している。その後だが,「そして,」の後には本当は「専門的,技術的分野と評価し得ない人材については」が挿入されるとわかりやすかったのだと思うし,最後の「検討していくことになる。」というのも,「検討していく」とどうしても断言したくなかった誰かがいたのか,同床異夢のようなわかりにくい文章になっているが,「特定技能1号」の介護分野に結実しているようにも思える。もちろん,当時「介護」も「特定技能」も具体的な展望があったわけではないから,あくまで「今思えば」である。この基本計画は,法律上「関係行政機関の長と協議する」ことになっているのだが,当時の堺屋太一経済企画庁長官が,「いい計画だ」とおっしゃって下さったと聞き及び,「この部分かしら」とちょっと嬉しい気持ちになったことを覚えている。
3)面白かったこと―2006年9月河野太郎法務副大臣私案
2005年,第三次小泉改造内閣で法務副大臣になられた河野太郎衆議院議員は,法務省の各部局の施策について素朴な疑問を投げかけられた。特に入管政策については,技能実習制度の問題やいわゆる単純労働者の受入れ政策について,抜本的に考え直したいということで,入管の中堅職員をメンバーとした「外国人労働者の受け入れに関するプロジェクトチーム」を主導され,度重なる議論を経て,2006年9月,プロジェクトチームの最終とりまとめを発表された。当初私もメンバーの一員であったが,2006年4月に地方官署に異動したことから,最終とりまとめには参画することができなかった。
この検討は,途中で「河野副大臣私案」としてパブリックコメントを求めるなどされたものであるが,そのかなり先進的な内容に,パブリックの理解はあまり広がらなかったような記憶がある。
その内容のポイントは次のとおりである。
- 新しく労働者を受け入れる仕組みを作り,それと同時に技能実習制度は廃止する。
- 「いわゆる単純労働者」と言われている部分を二つに分け,専門的・技術的分野とまではいわないが,一定の技能が必要な分野(特定技能)を認定し,その分野で必要な技能を検定する資格制度を創設する。
- そうした整備ができた分野から外国人労働者を特定技能労働者として受け入れることを認めるが,その対象となるためには一定の日本語能力を予め身につけていることが必要である。
- 来日後3年以内に一定の更に高いレベルの日本語能力を身に付けると同時に,その職種での高いレベルの資格を取ることができれば,在留期間の更新を認め,家族の帯同を可能とする。
- 配偶者にも日本語能力を身に付けていることを要求し,子どもは義務教育の対象となる。
- 雇用する企業には賃金の支払いと共に外国から労働者を受け入れることにより発生する社会コストの一部を負担してもらうこととする。
何と,現行特定技能制度の骨格とかなり同じ内容だったのである。河野(当時)副大臣には大変に申し訳ないことながら,2018年の特定技能制度の検討は,この河野私案を前提としたものではなかったが,出来上がってみたらかなりそっくりだったということで,河野私案の先見性に改めて敬意を表した。ちなみに,「特定技能」という在留資格名は,制度検討時に立法担当部署において,様々な理論構成の上産み出したものだったのだが,これもまた河野私案において,さらっと特定技能という名称が用いられていて驚いた。あの時,つまり実際に特定技能制度が創設される10年以上前にこの制度が動き始めていたら,今頃日本社会はどうなっていたことかと考えることは面白いことだが,刻まれる歴史には,やはり時代の要請などそれなりの背景や条件を要するということなのであろう。
4)次代の土台づくり―2005年自由民主党治安対策特別委員会提言
2012年施行の入管法等は,戦後の外国人管理の象徴などと言われてきた外国人登録制度を廃止し,外国人を住民基本台帳に登載し「普通の隣人」としての外国人包摂の土台となった大きな制度改正であった。
実はその政策立案は,自由民主党治安対策特別委員会の下に設置された(いずれも名称の記憶が曖昧であるが)「入管強化小委員会」,さらにその入国管理チームと在留管理チームでの検討及び提言が始まりだった。当時,不法残留者数や外国人による犯罪検挙件数も多く,治安対策特別委員会の枠組みの中で様々な入管行政強化策が検討され,打ち出されたタイミングであった。
入国管理チームの責任者は,後に総理になられる菅義偉議員,そして在留管理チームはそれ以前に法務政務次官も務められた山本有二議員で,この時の,入国管理の施策と在留管理の施策を同時に考えるという構造は,現出入国在留管理庁の出入国管理部と在留管理支援部が車の両輪となっている体制の萌芽になるものだったと,私は思っている。
この時の入国管理チームの提言は,上陸審査における個人識別情報の活用,つまり空港等での入国審査で,顔写真と指紋の提供を受けることによってテロ対策にも資する厳格な国境管理を行うというものであった。当時,同時多発テロが発生したアメリカが世界で初めて導入したしくみで,日本が世界第二の導入国になるという判断であった。その方向性は既に先行して別の計画で定められていたものではあったが,今や世界中の多くの国で,何らかの個人識別情報(バイオメトリクス情報)を入国管理に使用していることから翻っても,適時の判断だったと思う。当時問題になっていた不法残留者の中には,一度退去強制されてもまた名前を変えて再来日する人もいて,それを指紋の照合によって阻止するということも大いに期待されていたところで,この提言は,その後2007年に実現した。
一方で,在留管理チームの提言は,外国人登録制度に代わって在留カードを発行し,外国人の在留情報を法務大臣が一元的・継続的に管理するというものであった。併せて,外国人を住民基本台帳に登載することで,日本人住民と同様の行政サービスが提供される土台とするものであった。外国人登録制度がその歴史的役割を終えたことはもとより,外国人の在留管理が点の管理から線の管理になることで正確な実態把握が可能になるという意味で「新しい在留管理」と銘打たれた新制度は,その後2012年に実現した。後述のとおり,令和の時代に入って,外国人の管理と支援が車の両輪として政策展開されるようになるのであるが,その土台として,この2012年改革は歴史的必然のものだったと思う。
ちなみに,自民党のこれらチームの検討の資料準備等を入管局において行っていたのだが,私たちの間では,入国管理チームを「うさぎさんチーム」,在留管理チームを「かめさんチーム」と愛称で呼んでいた。どちらも大事なことなので勝ち負けの意味ではなく,入国管理へのバイオメトリクス活用はテロ対策としても不法滞在者対策としても喫緊の課題でロケットダッシュが必要だった一方,新たな在留管理は,適切な管理に資するとともに,今でいう多文化共生社会づくりの土台ともなり得るインフラであったため,じっくり検討を重ねて取り組むべき課題だという予感があったからである。
4. 2015年前後から今日へ~外国人労働者能動的受入れの足跡
1)日本的石橋方式―在留資格「特定活動」の大活躍
前出の「外国人積極的受入れ」の兆しが見えて以降,2015年前後から,外国人労働者受入れ政策は,新たな局面を迎えた。それは,それまでの外国人労働者受入れ政策が,「専門性」か「日本人の非代替性」を受入れの根拠としていたのに対して,「必要性」を根拠とする受入れが始まったことである。また,「積極的受入れ」は,それまでも受け入れていた外国人をより数多く受け入れるという変化であったのが,次期はそれまでは受け入れていなかった外国人労働者を受け入れるようになったという意味で,「能動的受入れ」の局面と,私は個人的に称している。
ただ,一気に門戸の本格的開放という形にならなかったところが,「石橋を叩いて渡る」日本的であった。つまり,EPA(経済連携協定)による看護師・介護福祉士候補者の受入れ(これは始まりが2008年だったので2015年に線を引くとやや例外的な先行事例となる)や,オリンピック・パラリンピックの施設建設のための建設労働者の受入れ,各種特区制度を利用した家事支援人材や農業従事者の受入れ等が相次いで実施されたのだが,EPAは相手国限定,オリンピックは時限,特区は場所が限定されている等,あくまで「例外的」な措置として始められた。そこで活躍したのは在留資格「特定活動」,即ち法務大臣が活動を指定する「その他」の活動を可能とする枠組みであった。
入管法に定められる在留資格は,我が国がどういう外国人を受け入れるかという政策の,内外に向けた宣言である。まだそこまでは政策検討が成熟していないとか,試しで受け入れてみるとか,時限で終わってしまうという受入れについては,「特定活動」で例外的に受け入れるというのがその在留資格の趣旨に合致するものと思われる。この時期が,そうした受入れを可能とし,その後「特定技能」→「育成就労」と続く,堂々と在留資格を伴う外国人労働者受入れへの助走期間たり得たのは,在留資格「特定活動」の果たした役割が大きかったとも言える。
ひとつ「セルフ・ツッコミ」をするとすれば,お試しや例外であるはずの在留資格「特定活動」を使って,なぜ技能実習制度が20年近くも運用されていたかということであろう。そこには,第2次出入国管理基本計画の核心部分が将来を匂わすような表現にしかならざるを得なかったこの制度の,3次元方程式のような事情があったものと思う。それが在留資格「育成就労」の創設でほぼ解決・解消されるには,更に15年以上の時を要したということである。
2)「必要性」に基づく在留資格「特定技能」の誕生
このように,「特定活動」の在留資格で新しい外国人労働者の受入れが続く中,2008年をピークに日本の総人口が構造的減少を辿るなど,将来の労働力不足への社会の不安が顕在化してきた。そのような折,「介護労働者も『特定活動』で受け入れたらよいのではないか。」という声が,入管局にも聞こえてきた。これは入管的には聞き捨てならないことであった。EPAや特区による受入れならまだしも,我が国の外国人受入れ政策としての受入れ拡大であれば,それは新しい在留資格を法定するべきであり「特定活動」の対象にする話ではなく,これに「特定活動」を使ったら,入管法の在留資格制度は崩壊すると思ったからである。少なくとも個人的には,この危機感が,「特定技能」の在留資格創設への原動力になった。そして2017年の後半ぐらいから局内での検討を本格化し,2018年が明けた頃から,その実現に向けていろいろなことが動き出した次第である。あの頃よくマスコミで,「法務省(入管局)は,特定技能創設作業を,官邸に指示されていやいやながら行った。」と報道されたが,それは事実ではなく,在留資格制度を守るために積極的に取り組んだ,というのが,少なくとも私の理解である。
「特定技能」の創設は,それまでの「Skilled Worker-Unskilled Worker」という構図を,「Skilled Worker-Semi Skilled Worker-Unskilled Worker」に再編し,特定技能1号をSemi Skilled Worker,特定技能2号をSkilled Workerに位置づけたものである。ちなみに,Unskilled Workerは長年「単純労働者」という言葉で語られてきたのだと思うが,改正法案の国会審議において,私がある場所で単純労働の具体的作業を発言した内容が話題になり,時の法務大臣に「職業に貴賎なし」と否定された嫌な思い出があり,そのトラウマから今でもあまりその言葉を使わないようにしている。
「特定技能」の創設に際して,「日本の労働市場の人手不足分野に外国人の力を借りる」という正に「必要性」が政策根拠として明示され,長いことそれを語らずに外国人受入れ政策を語って来たある種呪縛のようなものから解き放たれた,個人的にはそのような気持ちがあった。
3)ホップ,ステップ,ジャンプの総仕上げ―「育成就労制度」の創設
「特定技能」制度ができた時,少なからぬ入管庁の人たちは,「道半ば」という認識を持っていたと思う。それはつまり,「特定技能」と「技能実習」の関係を合理的に整合させることが必要という課題を共有していたからである。「特定技能」ができたとき,その対象分野における技能実習を良好に修了した場合には,自動的に特定技能に進めるという制度になった。でもそれでは,合理的な整合ではなかった。合理的な整合のためには,技能実習が30年間抱えて来たものを見直す,あるいは手放す必要があった。
2022年7月,時の古川禎久法務大臣は,技能実習を抜本的に見直し,この問題に歴史的な決着をつけると表明され,その後,有識者による1年を超える議論,それを受けた政府方針の決定,法案作成,法案審議のプロセスを経て,2024年6月,関連法案は成立し,技能実習は見事に育成就労に生まれ変わった。それは人材育成面での国際貢献ではなく,日本の労働不足分野に貢献する外国人材を日本で育成するための制度となった。2025年3月に閣議決定された「基本方針」によれば,我が国の外国人受入れはなお専門的分野に限られており,それはSkilled WorkerとSemi Skilled Workerを意味するものと思われ,育成就労はなお,育成かつ就労ではなく,育成のための就労のように見受けられる。それでも,それが我が国の人手不足分野での就労に限るもので,なおかつ育成した外国人材が特定技能1号そして特定技能2号にキャリアアップしていく道筋が明確につけられたことで,とても整合的な制度になったと思う。私は,この改革に携わられた全ての皆様に,心からの敬意を表する一国民である。
ところで,「特定技能」の法改正の準備中に,ある筋から,「技能実習の整理まで一気にできないのか。」という話があった。ただでさえ,「特定技能」の法改正が「拙速」との批判を各方面から受けている最中,さすがに時に猪突系の私でも,「それはUnskilled Workerの議論に踏み込むことになるので,丁寧な議論が必要です。」と言った記憶がある。結果的には,「外国人労働者受入れはSkilled & Semi Skilled Workerに限る」という政策が維持されたので,その時の私の言い訳が正確であった自信はないが,少なくとも育成就労制度について丁寧な議論が重ねられたからこそ,整合性のとれた美しいフォルムの制度になったのだと思う。
特定活動での新たな外国人労働者受入れがホップ,特定技能がステップ,そして育成就労がジャンプの三段跳びで,当面の我が国の外国人労働者受入れ政策の展望が出来上がった。
4)外国人受入れと多文化共生社会づくり―その両輪で走っていく日本社会カー
2018年の夏,特定技能制度の創設作業が始まっていた頃に「外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議」が立ち上がった。外国人関連政策についての初めての閣僚会議ができたこともさることながら,「外国人材の受入れ政策」と「多文化共生社会づくり政策」が「・(中ポツ)」で繋がったことを,私は感慨深く受け止めた。それまで長いこと,受入れ行政と多文化共生社会づくり行政が,担当省庁や地方自治体等主体も区々に進められていたのが,ここにおいて,「その二つは一緒に考えていくものなのだ,そしてそれは関係閣僚会議のメンバーである殆ど全ての大臣(行政庁)が責任を持って関与するのだ。」という体制ができたのである。体制というよりも「意識」だったかもしれない。その事務局は,内閣官房と法務省入国管理局が担当することとなり,その翌年誕生した「出入国在留管理庁」の重要な役割のひとつになった。
その時,1990年代から多くの南米からの日系人を受け入れたいわゆる外国人集住都市等の地方自治体が「国が何を今さら。30年遅い。」と思われたであろうことは容易に想像がついた。その首長の方々とお会いする機会に,「そう思っていらっしゃることは重々承知していますが,始めなければ始まらないので,始めさせて下さい。」と申し上げたことを印象深く覚えている。
これからも,外国人を包摂していく日本社会が,この二つの柱を車の両輪として進んでいくことは間違いない。車の両輪という意味は,ただシャフトで繋がっているだけということではない。日本社会で共に生きる隣人として外国人を受け入れる,そのために支援もするし,外国人にも必要な努力をしてもらう,そんな関係が築ける社会を目指して,「日本社会」という車が前に進んでいくことを願っている。



