「私のふるさと」

日立は、私の家のふるさとです。
私のおばあさんが、よく昔話をして聞かせてくれます。
「先祖代々住んでいた家は、今の日製※1の山手工場の中に、あったんだよ。その頃は、たった四軒しか家がなく、田んぼと畑ばかりで、それはのんびりとしてくらしていたんだよ。」
三年生の時、社会科で「のびゆく日立」を使って勉強をし、日立がいろいろと変わってきたことがわかりました。
そこでおばあさんの昔話をもとにして、日立のことをまとめてみました。
おばあさんは、明治三十五年多賀郡宮田村字田中に生まれました。今年六十九歳です。
生まれた家は農業で、田と畑で一ヘクタールの耕地でした。
その頃は、本山に赤沢銅山があり、西洋人が、技師として住んでおり、おばあさんのおかあさんが、畑でとれた野菜をかごに入れ背中にしょって本山まで売りに行きました。
秋になるとまとめてお米を売り、こづかいがなくなると大八車に、米を三俵つんで、滑川の宿に売りに行きました。

家の回りは、田んぼがほとんどで、農業用水の小川が家のすぐ前を流れておりきれいな水なので、顔・手・野菜・なベ・洗たくまでしていました。
今の山手と電錬の二工場をあわせた所には、家が、四軒しかなく、さびしかったそうです。
明治三十八年、久原さんが赤沢鉱山を買い日立鉱山を創業しました。
明治四十三年、家から少しはなれたところに日立鉱山のモーターの修理工場が、二むね建ちました。
物置きのような建物で、毎日遊びに行っては、窓からうす暗い油のにおいのする部屋をのぞいては、おじさんにどなられてにげてきたそうです。
その頃、工場をもっと広げる話が地主とされていたようで、やがて農業用水をせきとめてしまいました。そのため田んぼは作れず、畑だけになってしまいました。
おばあさんが小学校二年の時いよいよ新しい工場が建つので今住んでいる上桐木田へひっこしてきました。
そのころ上桐田には、私の家が一けんで近くには二軒ありました。それはさびしいところでした。
農業用水をせきとめてしまったので、この上桐木田の田んぼは、全部畑になってしまいました。ここでも田は作れませんでした。

冬は大麦・小麦を作り夏に大豆を主につくりました。
家の南西は、見わたすかぎりの桜山でよくむしろをもってすべりに行ったそうです。
買い物は、神峰神社のそばで旧国道ぞいの大桝屋・伊勢屋・亀屋ご服店で日用品を買いました。少し大きな買い物は油縄子か滑川へ行きました。およめ入り道具のような大きな買い物は山をこえ、入四間を通り太田まで行きました。

鉱山から出るけむりで、まわりの農作物や山の木などがかれてしまいました。そこで鉱山の農業試験場が、私の家のすぐ上に建ち煙害問題の解決に役立ってきました。
大正九年、おばあさんが十九のとき日立製作所が独立し、私の家の前の低い畑を買いとり、桐木田の野球グランドをこしらえました。父の生まれた大正十四年は前のグランドで花火をあげにぎやかでした。また、国道沿いに商店が六軒たちました。

私の家もおじいさんの頃には、日製につとめるようになりました。
それは、日立製作所が大きくなるにつれ、家の数もふえ、空地などがなくなり、農業ができなくなったからです。
昭和十八年に、おじいさんが日製をやめ、大洗町磯浜で鉄工場を始めました。
戦後磯浜から、工場を上桐木田へ移転し前の畑に工場を建てました。
昭和三十五年、家のやしきの四分の一ぐらいは産業道路の下になってしまいました。
以上の様に私の家は、日製の発展と共に農業から、つとめ人・鉄工場へと日立の歴史と共にあゆんできました。
日製最初の地に、私の先祖代々の家があったことをほこりに思っています。また、うら山に日本で最初とも思われる公害問題解決の日鉱農業試験場のあとがあることも重ねてほこりにおもっています。
今では、私の本当のふるさとを知る人もおばあさん一人になってしまいました。
私はおかげでいろいろと、日立の勉強ができました。またおばあさんは、昔の日立を知っている生証人だと思います。
久原さん※2・小平さん※3の努力のおかげで、日立市も大きなすばらしい町になりました。これからも、文化や工業の面でますます、発展し明るい住みよい町になることを願っています。

※1 日立製作所
※2 久原房之助
※3 小平浪平
「小平記念入賞作文集」より転載