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唐沢 穣氏

講演録

唐沢 穣

名古屋大学 情報学研究科 教授

皆さん、こんにちは。名古屋大学の唐沢と申します。私の専門分野は社会心理学で、「人間にはなぜ偏見が生まれるのか」ということを主な研究テーマとしています。現在、私の研究室では、世界中の多くの国から来た大学院生を指導しています。スペイン、ブラジル、インド、韓国、中国、アメリカ合衆国といった出身の大学院生たちと、日本人の学生が半々くらいのゼミで、先ほど述べましたような研究を行っています。
私は、アメリカの大学院に5年間在籍しておりましたので、日本人としてアメリカ人から差別や偏見を受ける経験をしたこともあります。しかし今日の、サヘルさんのお話や、アンジェロさんのご講演と比べますと、具体的な経験をもとにした、多文化共生、あるいはその障壁といった個々のケースについて語るには、私の話では到底インパクトを持てないと思います。むしろ私の役どころは、人間なら誰もが持っている「心の働き」、それもどちらかというと、国籍や民族に関係なく、ほぼ全ての人間に共通する心理的な過程を、科学的にどこまで明らかにできているかについてお話しする、そういった役割だと思います。
ここで扱う事柄は、さまざまな少数者集団を対象に起こる心理的な現象でして、国籍や民族に関するものに限りません。性別であれ、国籍であれ、民族であれ、性的指向性であれ、言語であれ、それについての少数者を対象に、多数派の側が持つ偏見、それはどこから来るのかについて考えたいと思います。ちなみに、いま性別をあげましたが、女性を「少数者」と見なすことについて触れておきます。確かに人類のほぼ半分は女性ですから、数の上では少数とは言えないかもしれません。しかし、それほどの人数の女性がいるにも関わらず、指導力や政治力など、さまざまな能力を発揮できる場に置かれているかという点については、圧倒的に少数です。この意味で少数者と位置づけられるのです。
こういったことを明らかにする際に、一つの重要な手掛かりとして、認知的節約ということがあります。これは何度も申しますように、ほぼ全ての人が、誰もが共通にして持つ心の特徴です。私たち人間を仮に計算機に例えますと、私たちは非常に大量で多様な情報環境の中で、少しでも労力を使わずに、知的な能力を節約する形で、いわば頭がしんどい目に遭わずに済むように、情報を処理しようとするという性質を持っています。この認知的節約こそが、ものが「分かる」ということの基本なのです。頭が忙しくてしんどかったら、「分からない」わけですから。人間はもともと、ものごとを理解する際に、この認知的節約をするように、いわば設計されているわけです。
認知的節約には幾つかの例がありまして、多くの研究がなされてきていますが、今日はそのうち2つだけをとりあげます。まずカテゴリ化ということ、そして第二に、目立った事例を基に一般化をするということの2点について、紹介させていただきます。
まず、カテゴリ化、あるいは分類する、まとめて見るということについて。これは人間にとって、知識や理解の基本です。今日のシンポジウムの、これまでのお話の中では一貫して、「ひとくくりにして見ないで」ということがキーワードの一つになっていますが、むしろ逆に、私たちはひとくくりで見るからこそものが分かるという、そういう性質を持っているのです。現に、「分けることが分かること」といった表現が、日本語の中にはあったりします。
例をあげましょう。仮に私が『社会心理学入門』という、いい本がありますからと、皆さんに薦めたとしましょう。書店、ネット上ではなくリアルの書店で、皆さんがそれを手に取ってみようと思われた時、どうやってこの本を見つけられるでしょうか。もし五十音順に本が分類されて並んでいたら、「し、や、か、い、・・・」このように多くの単位で理解しないとその本にたどり付けないわけですが、もちろん私たちは、そのようなことはしません。なぜなら、書店に行くと、専門書のコーナーとか、心理学のコーナーとかに、分かれているからです。ですから、分類された場所へ行けば、すばやく見つけられます。数少ないステップで、目標に到達することできるわけです。これが認知的節約の具体的な例です。このように、カテゴリ化というのは、個別に細かい情報を処理しないでも全体的な事が分かるとか、あるいは一を知れば十を知るという調子で一般化することができるとか、さらには分類したものに「意味」を見いだすという過程の基になっています。
さて今日は1月26日ですが、これから深夜を迎えて日付が変わるという時、皆さんはどれぐらい、わくわくされるでしょうか。12月31日が1月1日になる時ほど、わくわくするでしょうか。日付が変わるという点ではどちらも同じですが、12月31日には、年が変わるところが違います。つまり、分けてあることが変わるから、そこに何か通常と違う意味が生まれるわけです。ですからなおさら、1999年の12月31日には、どれだけ大騒ぎしたかっていう話です。私も含め多くの人は、もう忘れていますが、新しいミレニアムがやってくるというので、大変話題になりました。そうかと思うと、ミレニアムが変わって1年たったら、今度は21世紀になるんだったと思い出して、またひと騒ぎ。このように、分けることはたくさんありますから、それぞれに通常と違う意味を見いだすということをします。これはまさに、われわれがカテゴリ化をするから、できることなわけです。同様に、毎年同じようにしていることでも、「令和最初の何々」という風に分けることによって、そこに意味が生じます。(運動会風景のスライドを指して)このようにある時は、自分の子どもが赤組だからと応援したかと思ったら、次の年には、今度は白組だとなれば、それも容易に応援できる。これも、本来は意味がなかったものにも意味を見いだすことができる働きが、私たちの認知機能の中にはあるという例です。
このように分けるということにはメリットがたくさんありますが、弊害もあります。本屋さんで皆さんが本を探される場面に戻って、(「入門社会心理学」という本のスライド)「これだ、唐沢が薦めてたのはこの本だ」と手に取ってしまうこともあるでしょう。なぜなら、書名が似ているからです。もし書店の本が五十音順に並んでいたら、決して起こらないはずの間違いが、まとめて分けてあるために、かえって起こりやすくなるのです。このようにカテゴリ化の結果、似ているものはより似ているように、また違っているものは、より違いを強調して見るようになります。
「日本人」というカテゴリについても、同様です。今日、既にアンジェロさんも同じことを指摘されましたが、大坂ナオミさんについて、つい2年ほど前ですけれども、インターネット上でひどいことが書かれていました。「はたして彼女は日本人か」みたいなことです。実際、見た目だけで「似ているか」と問われたたら、彼女も憧れていたという(セリーナ・ウィリムズのスライド)、こちらのほうが似ているところもあるかもしれませんね。実際、国籍に関する彼女のバックグラウンドや、「日本語をあまり話さない」といった言語に関することを取り上げて、「彼女は日本人か」といったことが、ネット上に書き込まれていました。それが、チャンピオンになったが途端に、みんな口を揃えて「なおみちゃん」ですからね。「日本人初の◯◯」といった調子で、むしろ「われわれ」の側に含められるようになりました。これに似たことを、最近のラグビー・ワールドカップの際も、われわれは経験しました。どこで分けるか次第で、容易に人をおとしめることがあるかと思えば、逆に日本人らしい名前をしているからといって、カズオ・イシグロ氏がノーベル賞を受賞したら、彼のことを誇らしく思う心が働いたり・・・いずれも、カテゴリ化がもたらす結果と言うことができます。

唐沢 穣氏

先ほど申しましたように、いったん分けると、似ているところは、それ以前よりもさらに似ているように、また違っているところは、より違っているように見るようになるのですが、その結果、例えばこういうことが起こります。(スライドのイラストのセリフを指しながら)「この間、任せてた仕事で失敗した、あの留学生(まとめてます)、留学生の劉君だったか、張君だったか、どっちだったかな。」このように、「留学生」とまとめた途端に、本当はどちらの彼がミスしたのかを考えなければいけないはずなのですが、「留学生が何かミスしたな。まあいいや。ユウジ君でないってことだけははっきりしてるんだから、仕事を任せるのは、今度はユウジ君にしよう。」となるかもしれません。ミスしたのが劉君だったとしたら、張君にも仕事を任せればよいのかもしれないのに、カテゴリ化した途端、やはり「留学生」には任せちゃ駄目なんだということになるわけです。これは、いわば頭の中のできごとである認知的節約も、現に差別的な人の扱いを起こす原因になり得るということです。こういう思いがけないところにも、偏見や差別的な扱いの基礎があることを社会心理学の研究は明らかにしてきました。
認知的節約の第2の例として、目立った事柄、思い出しやすいこと、思い浮かべやすいことは、実際よりも多く起こっているように感じるという大原則についてお話します。これはノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンと、故エイモス・トバスキーという2人が見つけた現象で、利用可能性ヒューリスティックと呼ばれます。
私も年に何回か飛行機に乗りますけれども、何度も乗った飛行機でも、飛び立つ前に、これからまさに滑走路向かうという時に、頭をよぎることがあります。「安全に着くだろうな。」という考えです。一方で、運転する時にハンドルを握る瞬間、飛行機の場合と同じぐらいの気持ちで、「今日はちゃんと安全に着くだろうな」とは、めったに思いません。理屈で考えたら、プロのパイロットが事故を起こす確率より、素人の私が運転で事故を起こす確率のほうがはるかに高いにもかかわらず、です。なぜこれが起こるかというと、残念ながら私が事故を起こしたところで、おそらく新聞には載りません。一方、飛行機事故は規模が小さくとも、ほぼ必ず報道されますので、思い起こしやすいのです。そのため、思い浮かびやすい飛行機事故の方が頻繁に起こってるかのように感じるのです。
これを実験で、確かめる方法についてお話しましょう。多文化共生のテーマから話がいったん離れますが、私たちの心理的メカニズムを理解していただくために、少し別の例を取り上げてお話しているのだと、ご理解ください。
これは英語圏での話ですが、「小説4ページ、約2,000語の文章中に、7文字の単語で、ingで終わる単語は幾つあるでしょうか」と尋ねます。すると「2,000語だから20ぐらいあるかな、30ぐらいかな」というぐあいに、個人差はありますけれども、平均すると30ぐらいという回答が得られます。さて、質問方法を変えて「7文字の単語で、6番目がnである単語は幾つあると思いますか」と尋ねますと「6個、いや7個?」といった答えになります。さて、(スライドを指しながら)7文字の英単語でingで終わる単語ということなら、4文字の動詞にingを付けたものがたくさんあるほか、eveningなども当てはまりますから、確かにたくさんありますね。ただし論理的に考えるなら、ing で終われば全て、6番目がnですから、全てもう片方に含まれますよね。つまり、ingで終わらないのも含めればこちらの方が本当は多いのです。ところが、ingで終わる方は思い浮かべやすいので、たくさんあるような気がするのです。一方、7文字で後ろから6番目がnであるのを考えろと言われても思い付かないので、そちらはあまりないように感じるわけです。これが、思い浮かべやすいものほど、よく起こっているかのように感じる、利用可能性ヒューリスティックというものです。
このメカニズムを、いわば逆手に取って、どうやって偏見が生まれるかという過程を、実験で示した人たちがいます。この実験に参加したアメリカ人大学生は、約40の文章を、次々に提示されて読みます。例えばDavidという人が、困ってる人を助けた。Jasonは成績優秀、Johnは近所の子どもをからかって泣かせた、Andrewは病気の友人見舞ったというぐあいで、頭が良かったり性格が良かったりなど、どちらかと言うと望ましい特徴を持った人たちが何人か出てくるかと思えば、性格が悪かったり、ちょっと頭が足りなかったり、いわゆる社会的に望ましくないケースも含まれています。さらに、各人物の名前の後ろに必ず、「グループA」あるいは「グループB」に属すると書いてあります。
ハミルトンという社会心理学者が行ったこの実験が、どういう仕組みになっていたかと言いますと、正確には39の文章を読んでもらったうち、A集団は26人、Bのほうは13人から成っています。つまり多数派と少数派の集団です。そして、実際の世の中が一般にそうであるように、望ましい特徴の人たちが普通、つまり多数派で、その中に望ましくないケースが少数いるという設定になっています。つまり、A集団26人中の18人が望ましい人たち、8人が望ましくない人たちになっているのです。B集団の方は13人のうち9対4ですから、望ましい・望ましくないの比率は2つの集団で等しく、どちらの集団のほうが、より望ましい人たちというに違いない状態です。しかし、それぞれのグループが、どれくらい良い感じの人たちだったかを、「好ましい」とか「むかつく」とか「知的」だとか「なまけもの」だとか、20項目で評定してもらうと、A集団のほうが、何かしら印象が良いという評定結果が得られます。これと比べてB集団のほうは、何かしら印象が悪くなります。記憶課題でも、A集団で思い出すことの中では、望ましい・望ましくないの比率が、大体2対1ぐらいで思い出されるのですが、B集団については、なぜかしら望ましくない方が、実際の比率の割には思い出されやすくなります。自分でもなぜか分からないのだけれど、思い出しやすい、思い出しにくいが異なってきます。2つの集団の事例について、こういう(18 : 8と9 : 4の)組み合わせで見せられると、提示された文章の方では違いがなくても、印象や記憶には差が生まれるのです。おまけにこの場合、先入観がない集団が相手です。文章には文字どおりAあるいはBというアルファベットが書いてあるだけなのですから、先入観の持ちようがありません。さて、その仕組みですが、40もの文章が出てくるのを全部は覚え切れませんから、その中では数が少ないほうが目立ちます。ここで皆さん、思い出してください。目立つものは、より起こってるように感じられることを。少数者であるB集団の方が、より目立ち、また望ましくない行動は目立つので、B集団の望ましくない行動が特に目立ち、それが実際より多く起こっているように感じるのです。
加えて、私たちが、出来事の間の関係をどのように理解しているか、その仕組みを知ることも重要です。よく、「私が傘を持って出ると、たいてい雨が上がる」などと言いますが、それは傘を持って出た時に降り続けていたケースを忘れてしまっているのです。あるいは、「移民が増えたら地域の失業が増えた」という場合、それはむしろ逆の因果関係なのかもしれません。つまり、移民の人たちが来なくとも、もともと失業が多かった地域なのかもしれません。そのおかげで地価が下がって安く入れるから、結果として移民の人が入ってくるケースはあるわけです。こういうふうに、何かの原因から、結果として何かが起こるという関係を、錯覚していることが、よくあります。

唐沢 穣氏

目立つことの原因は、少数であること以外にもあります。少し話がややこしくなりますが、先ほどの表と違って、(スライドの表を見ながら)上段と下段で同じずつ人数がいるような構成で実験を行ったところを考えてください。この場合は、「B集団の人たちが出てきた時は注意するように」と、注意を促す手続きをとります。すると、やはりB集団の側の、しかも望ましくないケースが目立って、なぜかわからないけれどもB集団には嫌な人が多かったと、答えるようになります。
さて、目立つことの原因とは、数が少ないことだけではありません。例えば他の人たちと違う臭いが強いだとか、見掛けが違うだとか、印象に残りやすいことがあれば、それが目立つ集団となります。その、目立つ集団がとる行動のうち、数が少ないほう、つまり望ましくない行動が、やはり実際以上に多く起こってると感じられるようになるわけです。「この集団には気をつけろ」と、注意を向けただけで、その集団の望ましくない行動が強調されて見えるように、私たちの頭の中はできているわけです。これはまさに、「札付き」というものではないでしょうか。要注意集団。札付きというのは、あえてその集団の良くない行動が目立つようにしていることなのです。これは仮に上段(A集団)と下段(B集団)で比率が同じだったとしても起こるという話ですから、そこに先入観があれば、なおさら起こりやすくなる可能性があります。例えば特定の苗字と犯罪の間の関係といった、印象に残る組み合わせがあると、それが実際以上にたくさん起こってるように感じるといったことです。
こうした認知的節約のメカニズムがあるおかげで、私たちは、効率的に情報処理をすることができていると考えられます。ものごとを理解することができ、新しいアイデアが生まれることもあります。そういうメリットとは逆に、繰り返し申し上げていますように、一般化し過ぎるとか、目立ったケースだけで全体を見るとかいうことが起こりやすくなります。
今日、ここまでご説明してきました事柄は主に、人間が情報をどう処理するかという知的な側面の話です。このほかにも、それに伴う感情ですとか、多くのことがありますが、時間の関係から今日は一切、取り上げていません。それらの多くの事柄も、人間が情報処理する時に見られる、誰もが共通して持っている心の働きです。特別、邪悪な心、ゆがんだ心を持っているから偏見が生まれるというのではなく、むしろ人間の生活にとって、本来はプラスであったはずの事柄が、逆にいわば暴走すると、誰もが偏見を持つ基になる、そういったものを私たちは抱えているということをお話してきたつもりです。
さて、おまけにそういった傾向は、情報を通して拡散します。極端な表現が伝わりやすいというのも、その例です。現に、世界で最も権力を持っている政治家、あるいはその取り巻きたちが「フェイク」といった言葉を平気で使ったりするのが、この時代です。印象に残りやすい強烈な言葉というわけで、短いワンフレーズで情報を伝達するといったことが、これからどんどん行われるようになってくると予想されます。インターネット環境が広がれば広がるほど、私たちは、こういう情報環境の中でこれから生活していくわけです。
その典型的な例が、エコー・チェンバーと呼ばれる現象です。これは既にSNSのTwitter上で確認されたりしています。チェンバーとは小さい部屋のことで、私たちがあえて自分と同じ考えの人だけの小さい部屋の中に入って、そこでお互いに「こだま」し合うようにリツイートし合い、部屋の外にいる人たちの声が聞こえなくなってる状態が、エコー・チェンバーです。小部屋の中で響いているこだまが、まるで全世界であるかのような錯覚を持つようになるわけです。これは(スライドの図)、アメリカのTwitterで、青色で表したリベラル派(つまり、主に民主党支持)の人たちと、赤色で表した保守派(主に共和党支持)の人たちが、誰のツイートをリツイートしてたか調べた図です。これを見ると、赤色は赤同士、青色は青同士でしか情報交換してないことがわかります。つまり、ここにいる人たちにとっては、自分を含むかたまりの人たちが全世界なわけです。
このように、まさに分断していく情報環境の中で、私たちはこれから、何が真実なのか、何が現実なのかを理解していかなければなりません。そこへ、外国籍であるとか、性別が異なるとか、ある一定の性的指向性を持っているとか、政治思想を持っているとかいう区別を持ち込んで、こういう形で情報を処理していくという、私たちはそういう環境の中に、今現在、置かれているのだと思います。
今日は、私たちの誰もが、ごく普通に持っている、心の中にある壁と、その原因について、社会心理学の実験や調査で確かめられている事実を基に、ご説明いたしました。情報処理の仕方に見られる偏りは、特に悪気(わるぎ)があるわけではなく、むしろ正義感が基になっている場合もあります。自分の国を愛するとか、自分の集団を愛するとかの正義感が偏った形で表れることもあるのです。また今日は時間の都合でお話しできませんでしたが、意識される世界だけではなく、無意識のうちに起こっている偏りもあります。さらに、最後に少し触れましたコミュニケーションの偏りもあります。こうした、さまざまな偏り、つまり偏見や分断、あるいは壁の種を持ちながら、私たちは生活しています。一方、そういう偏りが私たちの中にあるという事実に気付くだけでも、偏りは自然と修正される場合があることも、研究により明らかになりつつあります。ちょうど私たちには病気に対する抵抗力があるように、何かの原因に影響を影響を受けているという事実を知っただけでも、少しはその影響を受けなくなるという性質があるらしいのです。言い古された事柄のように聞こえるかもしれませんが、認知的節約のメカニズムがあることを、まず知ることから、そしてそれを意識化することが重要でしょう。それが偏りを改め、解決を目指して、一歩一歩進むことになるのではないでしょうか。全世界で一緒になって続けていかなければならない、そのような営みに、私も研究者として貢献していくのだという意識でおります。
最後に一点だけ、資料には書き漏らしたのですが、強調したいことがあります。誰もが持つ認知的特徴のせいで偏見を持つ可能性があるということは、だからそれでも良いのだという正当化には、もちろん、ならないということです。むしろ誰もが持っている危うさに気付くことによって、私たちが元来持っている強さと弱さの両方を、伸ばしていくような、私もその一人でありたいと思ってます。
今日はお時間を頂戴しまして、ありがとうございました。