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公益財団法人 日立財団理工系女子応援プロジェクト わたしのあした

PIONEER TALK Vol.4 SHIZUKO HIRYU

人生の転換期。
一度は諦めた研究者の道に
再挑戦しました。

荒木:
先生はもともと電気工学など、どちらかというと超音波の工学系の研究をされていたということですけれども、どうして工学系を勉強しようと思われたのでしょうか。
飛龍:
あまり大きな声では言えないのですけど、文系の科目がちょっと苦手だったのと、どちらかというと理系が好きだったのとですね。
大学の学部を選ぶとき、まだ当時は理系の学部が一つしかなかったんですね。化学か、機械か、電気か、これしかなかったんです。ですので、小さい頃からの夢があったわけではなく、理系の方が好きかな?という気持ちで、ぽっと入ったところが、たまたますごく合っていたとという感じです。
荒木:
当時大学には女子学生がどれぐらいいらっしゃいましたか。
飛龍:
1クラス100人のうち、3〜5人ぐらいじゃないでしょうか。
荒木:
5パーセントぐらい。
飛龍:
はい。私が修士に進学した時には、70数名のうち私だけでした。
当時はあまり気にしていなかったんですけれども、今振り返ると非常に少なかったなと思います。
荒木:
例えばご家族からは工学系はやめたほうがいいのではといったことは言われませんでしたか。
飛龍:
女子が少ないということは、少し心配していましたね。
そのまま博士過程に進みたかったのですけれども、やはりその不安からか、一旦普通に就職をするようにと言われまして、博士に行くことは諦めて就職しました。
荒木:
就職はIBMにお勤めになられていたということなんですけれども、どのようなお仕事をされていたんですか。
飛龍:
当時は、ハードウェア開発のチームに入れて頂いて、大型コンピューターの電源システムなどの開発の仕事をしておりました。そこで、世界各国の色々な方と一緒に仕事をすることになり、英語に非常に苦労したことは覚えています。
荒木:
そのチームの中では女性はやはり少なかったですか。
飛龍:
海外も含めほとんどが男性の方でした。エンジニアとしては、周りには私だけだったと思います。
荒木:
女性一人ということは、気にはならならなかったですか。
飛龍:
女性だから損をしたということはありませんでした。周りの方に助けていただいて、逆に恵まれているなと感じていました。
ただ、その先の、結婚や出産のことを考え始めた時には、言葉にならない不安がありましたね。
なんとなく、子どもを持ってこのペースで働くのは大変なのかな、やりたい仕事を続けるのは難しいのかな、と悩んだ時期もありました。
荒木:
その後にまた博士課程に入られたということなんですけれども、どういった経緯だったのでしょうか。
飛龍:
たまたま、私が所属していた部署が東京に移動になる話が出てきまして、当時、結婚はしていましたので移動はちょっと難しいというのがありました。
それと、博士課程に行きたかったことを諦めたというのがずっと心の中にあって、4年目くらいの時に、戻りたいということを卒業した研究室の先生にご相談したんです。
荒木:
ご主人は、頑張れと応援をしてくれましたか。
飛龍:
はい。研究の世界とは関係のない所に勤めていますが、私がやりたいと思っていたことを感じ取ってくれていて、すごく協力を、理解をしてくれました。
研究者になるとなれば、いつどこで職が得られるか、という不安もありますから、子どもを持つ夢も遠のきましたし、結婚してからまた学生に戻るという無茶苦茶な生活ですけど、そういう時期を一緒に乗り越えてくれたことを本当に感謝しています。
荒木:
会社を休んで大学に戻られたということですけれども、学位を取られた後は、そのまま研究者に?
飛龍:
はい。行く先は決まっていませんでしたが、学位を取る少し前ぐらいに、研究者めざそうと会社を辞めることを決めました。