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公益財団法人 日立財団

多文化共生社会の構築シンポジウム「日本社会における多文化共生社会実現の壁」〜心のグローバル化〜多文化共生社会の構築シンポジウム「日本社会における多文化共生社会実現の壁」〜心のグローバル化〜

唐沢 穣 氏

唐沢皆様、初めまして。唐沢と申します。よろしくお願いいたします。今ご紹介いただきましたように、私は大学で社会心理学という分野を専門に研究をしております。今日の私の役どころとしまして、学術的な立場からこういった問題にどうアプローチしたらいいかというのを提言させていただきたいと思います。心理学の中にもいろいろな分野がありまして、その中の社会心理学の中にも、様々な研究テーマがあります。その中で私自身が大学院生のころから今日に至るまで一番長い間研究してきたことが、「心の壁はどうやってできるのか」についてです。それがわかれば、どうやって壁を崩せばいいかもわかるようになる。同じような考えで、世界中に、そのようなテーマで研究をしている者がいます。我々の専門の言葉で言い変えると「集団間の関係」というのですが、私もそういったテーマで研究をしている一人です。その一環で、きょうは今申しましたように「偏見」ですとか「集団間の関係」についてお話したいと思います。
まず、「偏見と差別」について考えるときに、心がねじ曲がった人が偏見を持ったり、人間の持っている邪悪な感性や、人間性の邪悪な側面が、偏見や差別を生むのだというのも、一つの考え方だと思いますが、私が研究する際にとっている基本的な立場というのは、全ての人、普通の人が持っている人間の精神的な活動である「心」には、人それぞれに癖があることに着目するというものです。その、誰もが持っている心の癖、これが「偏見」になったり「差別」に至ったりするんだということを、明らかにしようとしています。その成果の一つとして、私たちの仲間と一緒に『偏見や差別はなぜ起こる?』という本を最近出版させていただきました。機会があれば、そこに詳しい研究の内容などについて書かれていますので、ぜひ読んでいただきたいと思います。
先ほどの、人間なら誰もが持つ心の癖についてですが、心理学では、人間がどうやって情報を処理しているのか、そしてそれが人間の知的な側面にどう関わりを持っているのかを調べることが、大きな課題です。現在、人工知能の研究がさかんになっていますが、そこでも、人間よりもより優れた知能をどのように創ったたらいいか、あるいは、それでもまだ人間にしかない側面とは、どのような事なのかについて、注目されています。
さて、「わかる(理解する)」とは、「分ける」ことだと、よく言われますが、物を「わかる(理解する)」するとは、物を知るために、分けなきゃ物を知ることができないのです。ですから、分けることは、誰もがしている、ということになります。現に私も皆さんの前に、いきなり登場して唐沢穣といいますと話し始めても、ほとんど何も伝わりませんが、心理学が専門と「分ける」ことで皆さんに伝わることがありますし、その中でも「社会心理学です」と言うと伝わることがありますし、きょうのテーマについても、「偏見についてです。」と分けることにより意味が通じやすくなります。私たちは「分かる」ということを普通に行っているのです。ただ、人間が誰もが持っている、ごく当たり前のその知的な側面が、分けることによって、場合によっては問題を引き起こします。いったん物を分けますと、同じ分類に入ったものは実際よりも似ているように見えてきますし、違うグループに入れると実際よりも違って見えてきたりすることがあります。例えば「関西人というとみんな人を笑わそうと思っている」と見えるというのは、そのわけて見ることから生じることの一つといえます。
それから私は、なぜ「身内びいき」が起こるのかとか、どうやったら「愛国心」が生まれるのか、あるいはナショナリズムがどうしてできるのかとか、そういったことも研究のテーマとしております。こういった事柄というのは先ほどから申しますように、人間なら誰もが持っている共通の側面ということになるのですが、一方でそれには、例えば国によって、あるいは文化によって、また歴史によって考え方が違ったり、心の癖のあり方が違ったりします。そうした文化の影響や、社会問題との関係を調べることも、我々の専門分野です。なので、心の壁は、必ずしも我々の良くない側面にあるとは限らなく、誰もが持っている性質だということです。
ただし、そうすると、誰もが持つものであれば、「偏見や差別」があっても仕方がなく、どうしてもなくすことはできないという話になってしまいまう恐れもあります。そうではなく、だからこそ問題を解決していくのだというのが我々研究者の使命だと考えます。そして、私たちと一緒に住む人間同士として、日本人だけでなはなく、日本に来られる方々も含めて、どうやったらこの問題を解決できるのかを考えることが、我々の課題だと思います。
さらに付け加えますと、日本社会が持っている独特な特徴として、「偏見や差別」を、人権の問題として考えるのではなく、心情的に考えたりする特徴があります。
最後に私自身の話を少しさせていただきますと、アメリカで過ごした大学院時代は、日本国とアメリカ合衆国からのサポートを得て研究ができ、今日に至っているのですが、そのおかげで、人一倍、日本に対する愛国心を持っています。私の愛する国が、世界中の人たちと一緒に歩んでいける国になってほしいし、なりたいなと思っている、それが私の基本的な立場です。

山脇唐沢さん、ありがとうございます。それではここからパネルディスカッションに移らせていただきます。
基調講演のサヘル・ローズさんから、一声から始まる一歩、「誰かがやるからいい」ではなくて、「大丈夫?」とか「頼っていいんだよ」と声をかけることから始まるという、心を打つお話がありました。一方で差別や偏見に悩んでこられたとおっしゃっていました。日本人は閉鎖的と言われます。申込みの時のコメントでも、「違うものをなかなか受け入れることができない日本、どうしたら変われるのか」といただきました。そういった心の壁が日本人には、特徴としてあるのでしょうか。まず日本にいらして30年間のアンジェロさんから、日本人の心の壁について感じていらっしゃることを教えていただけないでしようか。

アンジェロ私自身が感じている「壁」というよりは、日本に暮らす外国人が感じている「壁」について話します。2000年ごろに掲載された「ニューズウィーク」の表紙に、外国人に対する心の壁が見られました。
英語版の表紙には、「キャン・セイ・イエス(Can say yes)」と、素直に外国人や移民に対して日本がイエスと言えると、なっているのに対して、それがなぜか日本版になると、「移民にイエスというのではなくて、ノーと言えないニッポン」となっています。
これは、仕方なく、やむを得ず、これから外国人あるいは移民を募集していかなければいけないという抵抗感を感じました。日本で外国人たちが感じている「壁」は、法の壁、言葉の壁、そして心の壁です。その中で法制度の壁については、色々と改善されつつあります。言葉の壁に関しても、私が日本に来た1990年に比べると劇的に改善され、言葉の壁を解消するという意味ではかなりの進歩が見られるようになりました。一番やっぱり手つかずの状態なのが、30年前に比べてさほど進んでいなく、厚みのある心の壁だと思います。毛受さんのお話にもあり、サヘルさんの話の中にも具体的な体験談として例がでた、外国人に対しての入居差別の話は、20〜30年もたったのに、まだ改善されていない部分もあり本当に不思議です。あと、わざわざうちは外国人でもオーケーと、自慢する業者には、違和感を感じるべきです。つまり、特定の不動産屋は外国人を、特別扱いとしてオーケーですよといい、全体としてはやはりオーケーじゃないというところもおかしいと思います。コインの裏表と同じです。

山脇絵里子 氏

山脇ありがとうございます。入居差別については、先ほど唐沢さんがお話された「分ける」ということや、特徴的なところで印象づけてしまう、グルーピングしてしまうということがあると思いました。例えば、外国人の誰かが、1人で借りたのに何十人もそこに出入りして困るというトラブルがあったとしても、それは一人一人の問題であって外国人全体に言えることではないにもかかわらず、外国人全体を「入居できません」と除外してしまうということが起きる。この心理的なメカニズムについて唐沢先生お願いいたします。

唐沢私たちは「目立つこと」、「記憶に残りやすいこと」、「すぐ思い浮かびやすいこと」について、実際に起こっているよりも頻繁に、起こっているように感じるんです。例えば、私が車で出かける時に、自動車のエンジンをかけながら「大丈夫かな、無事に着くかな」と考えないのに、飛行機に乗るとき、「大丈夫かな、無事に着くかな」と思ってしまう。確率から考えたらパイロットの方が事故を起こす確率の方がはるかに低いはずです。しかし、飛行機の事故は必ず報道されるのに対し、私が大きな自動車事故を起こしても必ず新聞に載るとは限らないので、飛行機事故の方が怖く感じるわけです。目立つことや、みんなが思い浮かべやすいことというのは、実際以上に起こっているように感じるんです。ちなみに、この研究でノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンというすばらしい心理学者がいます。
さて、外国人は日本人に比べて、より目立ち。例えば「外国人労働者」って言いますけど「日本人労働者」って言いませんね。このように、形容詞として用いられるカテゴリーは、たいてい目立ちやすいことの表れです。「女性社長」と言っても「男性社長」と言わないのと一緒で、形容詞のように「ラベル」に使うということは、それこそが目立たせてるということです。さて世の中では、「まとも」なことよりは良くないことのほうが目立ちます。ですから、外国人という風にラベルを付けて、そもそも目立たせた人たちの中で、さらに目立つことというのは、実際よりいっそう多く起こっているように感じられます。実際には、日本人の中でも同じように起こっていることでも、それ以上に多く起こっているように感じられる。ですから、「あの集団には注意するようにって注意を向けさせたら」、そこで起こっている数少ないことは実際以上によく起こっているように感じられるということです。これが「札付き」の意味ですよね?要注意集団に、注意しろと言った途端に、そこで起こっている数少ない、つまり目立つことは、実際より多く起こっているように感じられます。先ほどの、「におい」が目立つとか「音」が目立つとか「外国名」が目立つとか、目立つことはいっぱいあるので、それが連想させる多くの極端な出来事というのを過大評価されているというのが、少数者に対する心理の中で起こっていることの正体です。これは、心理学の実験の中で、繰り返し示されてきました。

山脇大変参考になりました。ありがとうございます。先ほど毛受さんから、外国人の犯罪についても、減っているのにもかかわらず勝手に「外国人が増えると治安が悪くなる」と感じてしまう。間違ったイメージを勝手につくってしまうとお話がありました。そもそも日本人は閉鎖的なのでしょうか。毛受さんからお願いします。